海舟余波
昭和49(1974)年に文藝春秋から出版された、江藤淳氏の『海舟余波』のあとが
きにこのような記述が出てくる。
海舟は、『思ひやつれし君』という不思議な訳詩をのこしている。その全文をここに掲
げれば、
《思ひやつれし君
なにすとて、やつれし君ぞ、哀れその、思たわみて、
いたづらに、我が世を経めや、あまのはら、ふりさけみつ、
あらがねの、土ふみたてて、ますら雄の、心ふりおこし、
清き名を、天に響かし、かぐはしき、道のいさをを、
あめつちの、いや遠ながく、聞く人の、かがみにせむと、
我はもよ、思ひたまはず、おほろかに、此の世をへしとおもやつれども》
のごとくであるが、私は最近、千葉宜一氏の『近代詩の黎明』(「講座日本現代史」
T・右文書院刊・所収)によって、この原詩がJ.Daniel Herrnschmitdt Lobe Den
Herren, O Meine Seele!という賛美歌であると推定されることを教えられた。
千葉氏は、これが海舟自身の信仰告白であるとする所説をも紹介している。もしそうで
あるとすれば、興味深い推論が可能であろう。すなわち、幕府をも朝廷をも超越した国
家を構想しようとした海舟は、当然国家を超える価値の存在をも感じていなければなら
なかった。その感覚なしには、おそらく国家の構想そのものが不可能であった。……こ
れは、きわめて誘惑的な推論である。しかし、惜しむらくは、千葉氏の論文を読んだの
が今年になってからであったので、この本のなかにはこの重要な機軸をとり入れること
ができなかった。
江藤氏がこの「あとがき」を書いてから久しい時間が流れたが、私は現在まで、江藤氏
がこの点について、さらに 突っ込んで書いている論文を読んでいない。(もし存在する
ようなら、どなたかご教示願いたい。)
海舟は心の中にどんな神を抱いていたのだろうか。彼は心の奥深くにキリストを抱きな
がら、その秘密を死ぬまで隠し通したのであろうか。私ははっきりとそうだと言うこと
はできない。しかし、その可能性をまったく否定しさることもまたできないでいる。
海舟は国家を超える価値の存在をも感じていた。
江藤淳氏の暗示は確かに私には誘惑的な響きを持っている。はたして皆さんには、どう
響いているだろうか。
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