現代の攘夷論・勝海舟によせて


ペリーが浦賀に現れた時、日本は大騒ぎになった。そのときの日本側の議論の多くは 「国辱論」だったと作家の童門冬二氏は『勝海舟の人生訓』(PHP文庫)の中で書いてい る。

つまり、押しかけてきたアメリカが、けしからないのであって、日本側はあくまで受け 身であり、何ら外国に対して挑発的な態度をとったこともない。にもかかわらず、いき なり押しかけてきて、「国を開け」だの、「交易をしろ」だのというのは、まったく礼 を失したやり方だ。このまま従えば、日本は馬鹿にされ放題されていることになって、 大いに世界に恥をさらすことになる、というのだ。そういう国民感情を基にしたのが、 攘夷論だと言える。(P191)

ペリーの後を受け、ハリスが日本に日米修好通商条約を結ばせた時、天下はまたまた沸 騰し、「幕府は、ハリスの恫喝に屈したのだ」などという批判が渦巻いた。が、勝海舟 は大勢の意見に反してこのような意見を吐く。

彼は、「ハリスの恫喝には公理がある。日本は私理で対応した。だから、私理が公理に 負けたのだ。決して恫喝ではない」と言った。「日本の役人は、ハリスの言うことを徹 底的に拒もうとした。しかし、ハリスは絶対にきかなかった。それは、ハリスの言うと ころは、天下の公議と必然の理をもっていたからだ。それに対して、幕府側が主張して いるところは、単なる国内の小節でこれに当たろうとしたから、結局は、ハリスに全部 反論されてしまった。その結果、彼の言う通りになってしまったのである。こんなこと は、はじめから分かっていたことだし、当然世界の笑い物になるのも自明の理であっ た。幕府の対応が悪かったのだ。ハリスの恫喝に屈したのではなく、日本は、その立て た理論の小ささによって敗れたのだ」と言った。(P192)

私に付け加える感想があるとすれば、こういうふうに言いたい。つまり、西洋は「天下 の公理」で攻めてくる。だがもちろん彼らは「善意でやっているわけではない」。それ は現在日本の大企業が「善意」で中国市場に参入しようとあれこれ活動しているわけで はないことと同じである。これはいわば----こう言ってよければ、神々による----「人 類に対する世界史的な時代の変化の要請」であり、西洋人たちは、必ずしもそのような 「神々の声」を聞いたわけではないが、彼ら自身の「当面している興味」とは別に、そ れは「〈時代精神〉によって要請された行為」でもあったのだ。

当時アジアに住む人々は西洋人に対してこう感じていた。

西洋人は「美しい理念」を携えてやってきて、実際には「当面している興味」(すなわち 利益の獲得)を中心にすえて、結果的には「汚く稼いで自国に帰っていく」。

この「現実の行為」は当然アジアに住む人々の心に怨念を生まずにはいない。そのアジ アの怨念の代表者として、「アジアの近代化の黎明期」に「日本は立ち上がらねばなら なかった」が、「現実的に」戦おうとすれば、 それは自らが(注1)「アジアの背教者」 扱いをされることを意味していた。大きな観点から見れば、清国と朝鮮国は、かつての 日本国内にいた、国際情勢の分からぬ頑迷な尊皇攘夷派と同じ人種だったのである。日 本国内でさえ、国論を開国に持っていくのは容易なことではなく、たくさんの血を流さ ねばならなかった。まして、その規模を極東地域に拡大して眺め直したときに見えてく る日本の位置、すなわち「開国論者=日本」の苦労はどれほどのものがあったろうか。

さてひるがえって現在の世界情勢である。アメリカの唱えるグローバリズムとは一体何 だろうか。その本旨が「人類の経済活動は国家の制約を受けるべきではなく、人々の自 由なコミュニケーションにゆだねられるべきだ」というものであるとしたなら、これは 「21世紀の天下の公理」ではないだろうか。(もちろんここには「商行為において世界 が一定のルールを共有することによって」という前提が挿入されている。)かつて経済 活動のブロック化が何を生み出したか、われわれは知っている。それは国家利益のエゴ となって爆発し、ついに1度では懲りずに2度にわたる巨大な世界戦争に発展した。

例えば、今イスラム教徒であるからといって、イスラム指導者たちが「イスラム教徒た ちの精神の自由と自由な経済活動」に制約を加えることが果たして妥当なことだろう か。どのような人間であれ、「彼らの自由」を「別種の権力」によって制限することは 間違っている。問題は、にもかかわらず「西洋が----今ではアメリカがそれを代表して いるように見られているが----その公理に沿って正しく行動していないように〈彼ら〉 には見える」ということなのである。

もし西洋の「公理に反する現実の行為」を正したいと思うのなら、イスラム社会も「自 発的に変化し」、西洋に対して「天下の公理」で戦っていくほかないではないか。彼ら は、「西洋人は〈美しい理念〉を携えてやってくるが、現実には汚く稼いで帰ってい く」と語る。それが本当なら、それを自覚させるためにこそ「天下の公理」で戦うべき なのであって、他人の持っている大金のことにしか関心がなく、「その妄想」ゆえに、 世界に混乱と紛争を投げ込もうとしている社会主義・共産主義者たちの「富の争奪戦に しか関心を示さないような論法」に引きずり込まれるような愚をイスラム世界はおかす べきではない。

西洋人であれ、東洋人であれ、近代人として生きている人は誰でも、魂の変化を迫られ ている。そうではないだろうか。

そしてまだ人々にははっきりとは意識化されていないけれども、別種の理念もつけ加わ ることだろう。それとも広大なアジア地域に住む人々は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に出 てくるカンダタのように一方で「美しい心」を持ちながら、結局は「民族の利己心」に よって、「生き延びたい」という「当面の欲求」のために、最終的には「敵対の道」を 選ぶつもりなのだろうか。もし忍耐がなければ、その足りなさの分だけいずれ多くの 人々が死ぬことになるというのに。(02.03.17)



(注1)「アジアの背教者」については、ルドルフ・シュタイナーの「社会の未来」所収の 該当ページ「アジアの背教者(1)(2)」参照のこと。なお「アジアの背教者」という小題 は、私がシュタイナーの言葉から選んで便宜的につけた小題である。

第一次大戦後の1921年に発表されたこの文章の中でシュタイナーは「西洋がこのまま思 考態度を改めようとしないなら、そのときは東洋が----すなわち日本が----西洋に戦争 をしかけてくるだろう。しかもその『東洋』は一方では『その他の東洋世界の背教者』 として現れるだろう」という発言をしたが、その後の世界は、はたしてシュタイナーの 「見通し」の通りになってしまい、その恐るべき大破局のあと、今日の新しい世界が誕 生し、今現在に至っているのである。