海舟発言録(既出分)












第35回 
維新のころには、妻子までもおれに不平だったよ。

広い天下におれに賛成するものは一人もなかったけれども、(山岡[鉄舟]や一扇には、あとから少しわ かったようであったが)、おれは常に世の中には道というものがあると思って、楽しんでいた。また一事を 断行している中途でおれが死んだら、だれかおれに代わるものがあるかということも、ずいぶん心配では あったけれども、そんなことはいっさいかまわず、おれはただ行なうべきことを行なおうと大決心をして、自 分で自分を殺すようなことさえなければ、それでよいと確信していたのさ。(氷川清話)


第34回
時勢の変わりというものは妙なもので、人物の値打ちが、ガラリと違って来るよ。

どうもその事が分からなかったがネ、今から三十二年前に、初めて分かったよ。ワシが抜擢されて、その ころの上の者と初めて一つ会議に出た処が、カラキシ、一つも知らない。それはひどいものだ。どうしてこ れで事が出来たものかと思って、不思議なほどであったが、その時、初めて、勢いの転ずる工合が分か った。

(氷川清話)


第33回 
人はよく方針というが、方針を定めてどうするのだ。およそ天下のことは、あらかじめ測り知ることができ ないものだ。網を張って鳥を待っていても、鳥がその上を飛んだらどうするか。われに四角な箱を造ってお いて、天下の物をことごとくこれに入れようとしても、天下には円いものもあり、三角のものもある。円いも のや、三角のものを捕らえて四角な箱に入れようというのは、さてさてご苦労千万のことだ。

おのれに執一の定見を懐(いだ)き、これをもって天下を律せんとするのは、けっして王者の道ではない。 鴨の足は短く、鶴のすねは長いけれども、皆それぞれに用があるのだ。反対者には、どしどし反対させて おくがよい。わが行うところが是であるなら、彼らもいつか悟るときがあるだろう。窮屈逼塞(ひっそく)は、 天地の常道ではないよ。

幕府の軍艦が、函館へ脱走したときにも、おれは、すてておけば彼らは軍費に窮して、ただちに降参する だろうといったけれど、朝議はきかないで、これを征伐したものだから、あのとおりたくさんの生命と費用 とを、いたずらに消耗してしまった。

まあ、世間の方針方針という先生たちを見なさい。事がひとたび予定の方針どおりにいかないと、周章狼 狽して、そのざまは見られたものではないよ。

(氷川清話)


第32回 
海舟:福沢(諭吉)も、(病状は)少しいい方だそうなネ。

巌本:十九日ごろから少しいいそうです。維新の時、福沢から、何か書いたものを出しましたか。

海舟:イエ、ありません。あの時は、何でも、本所辺にかくれておったそうナ。弱い男だからネ。それで、 あとから、何んとかかとか言うのサ。アレに、福地(桜痴)ネ。

ミンナ、後で、何んとか言うのサ。

(海舟座談)


第31回 
北条氏の憂うるところは、ただ天下の人民ということばかりだった。それゆえに栂尾(とがのお)の明恵 (みょうえ)上人が、あるとき、泰時に向かって、北条氏が帝室に対する処行につきて忠告した際にも、泰 時は、「いかにもおそれ多いことだけれども、民百姓のことを思うと、やむなくかくせざるをえないと、先父 も常々申された」と答えたそうだ。その決心は、実に驚服すべしだ。おれも幕末のときに、はたして北条 氏の決心にならいうるかえないかと、自ら省みて考えたら、とても自分にはならいえないと悟ったよ。

北条氏は、このとおり善良なる政治家であったけれども、いずれも無学文盲で、後醍醐天皇の勅文をさ え読むことができなかった。しかし、実際の手腕は、あのとおりさ。

おれは学者が役にたたないということを、維新前からよくよく実験したよ。「学者の学問」は、容易だけれ ども、おれらが「無学の学問」は実にむつかしい。

(氷川清話)


第30回 
これまで民間に潜んでいた若手も、おいおい天下の実務に当たるようになってきたのは、いかにも結構 だが、今の若い人は、どうもあまり才気があって、肝心な胆力というものが欠けているからいけない。

いくら才気があっても、胆力がなかった日には何ができるものか。

天下のことは、口頭や筆端ではなかなか運ばない。なにしろ今の世の中は、胆力のある人物が一番必 要だ。

(氷川清話


第29回
日本のただいま不景気なのも、別に怪しむことはないのだ。

とにかく、経済のことは経済学者には分からない。

それは理屈一方から見るゆえだ。世の中はそう理屈どおりいくものではない。人気(じんき)というものが あって、何事も勢いだからね。

(氷川清話)


第28回 
明治十年の役のときに、岩倉公が、三条公の旨を受けて、おれに「西郷がこのたび鹿児島で兵を挙げた については、お前急いで鹿児島へ下向し、西郷に説諭して、早く兵乱をしづめて来い」といわれた。

そこで、おれは、「当路の人さえ大決断をなさるなら、私はすぐに鹿児島へ行って、十分使命を果たして ご覧にいれましょう」といったら、岩倉公は「お前の大決断というのは、おおかた大久保と木戸とを免職し ろということであろう」といわれたから、おれは「いかにもさようでござる」といったら、「それは難題だ。大 久保と木戸とは、国家の柱石だから、この二人は、どうしても免職することはできない」といわれたので、 「それではせっかくのご命令であるけれども、とてもお受けをいたすことはできない」といって、おれは断っ てしまった。

ところがあとで聞けば、このとき鹿児島では桐野が「旗揚げのことが政府へ知れたら、今に勝麟がだれ かの密旨を受けて、やって来るであろう」と西郷に話したら、

西郷は「ばかをいえ、勝がでかけてくるものか」といって笑ったそうだ。

どうだ、西郷はこのとおり、ちゃんとおれの胸を見ぬいていたのだ。もはや二十年の昔話ではあるけれ ど、これらがいわゆる真正(ほんと)の肝胆相照らすということの好適例だ。

(氷川清話)


第27回 
なんでも人間は子分のない方がいいのだ。見なさい。

西郷も子分のために骨を秋風にさらしたではないか。

おれの目でみると、大隈も板垣も始終自分の定見をやり通すことができないで、子分にかつぎ上げられ て、ほとんど身動きもできないではないか。

由井正雪でも、西郷南洲でも、自分の仕事が成就せぬということは、ちゃんと知っていたのだよ。

おれも天保前後にずいぶん正雪のような人物と出会ったが、この消息は、俗骨にはわからない。つまり 彼らには自然に権力がつきまとうてくるので、何とかしなくては耐えられないようになるのだ。(氷川清 話)


第26回
憲法などというのは、上の奴の圧政を抑えるために下から言い出したものサ。

それを役人らが自分の都合に真似をしただけの事サ。君方だって、親父の野蛮な血が半分残っている。 それからまた半分残る。野蛮と文明の間(あい)の子だよ。どうしてそう早く変るものか。(海舟座談)


第25回
慶喜公が、「お前は何年でやるかエ」と言われたから、『さようです、先ず、あれのした事は道理があると 言われるのは、十五年、もっともだと言われるのは二十五年、四十年立たなければなりませぬ』と入った ら、「途方もないことを言う」と言ったよ。四十年立ってご覧ナ。

息子の代になれば、何でどうしたのだか、忘れてしまって、その綱(すじ)ばかり残るよ。

維新の大業だって。まず五十年サ。どうして、そう早く出来るものか。(海舟座談)


第24回 
今日、外交の方針だとかいって、騒いでいるけれども、全体、何をしとるのか、おれにはわからない。

飯の上の蠅を追うようなことばかりやるのに、方針も何もいるものか。

世間の人も人だ。西洋に行って少しばかり洋書が読め、英語で談判でもできれば、はや今第一の外交 家と仰いでいる。上も下も似たり寄ったりのものさ。こういうふうでは、やはり幕府の末路と同じようになる かもしれないから、しっかりやってもらいたいものだ。おれなどは、昔からずるいやつだによって、この六 畳の室に寝てばかりいるけれども……。(海舟座談)


第23回 
(島津)斉彬(なりあきら)公は、えらい人だったよ。西郷をみぬいて、庭番に用いたところなどは、なかな かえらい。おれを西郷に紹介したものは、公だよ。それゆえ、二十年[十年?]も以後に、初めて西郷に会 ったときに、西郷は既におれを信じていたよ。あるときおれは公と藩邸の園を散歩していたら、公は二つ のことを教えてくださったよ。それは、

人を用いるには、急ぐものでない

ということと、

一つの事業は、十年経たねばとりとめのつかぬものだということ

と、この二つだったけ。(氷川清話)


第22回 
先年、李鴻章(日清戦争の講和の清国代表)が来るときにも、おれは前からいっていたよ。あれなら、話 はどうにでもできる人物だから、こちらからはあまり進んで欲をいわないがよい。出すときには、見切りが はやくつく男だから、そのつもりで談判しろと政府の人にも忠告しておいたよ。それを「なに老爺(としよ り)がまた古風な考えを持ち出す。外交の駆け引きはそんな人好きさたではいけない」といわぬばかりで 聞いていたが、

はたして李に一段上(三国干渉のこと)を越されてしまった。

いくらシナ人との談判だからといったって、相手の人物を見てやらないと、すべてこのとおりさ。

(氷川清話)


第20回
坂本龍馬が、かつておれに、「先生はしばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者もいって会ってくるに より添え書きをくれ」といったから、さっそく書いてやったが、その後、坂本が薩摩から帰ってきていうに は、

「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば、大きく響く。も しばかなら大きなばかで、利口なら大きな利口だろう」

といったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ。(氷川清話)


第19回 
先日もある役人がきたから、おれは、「お前ももう止めてはどうだ」といったら、「これも国家のためだから、 いやいやながら、よすわけにはいかない」といった。そこでおれは、「それはいけない、自ら欺くにもほど がある。昔にも、お家のためだから生きるとか死ぬるとか騒ぐやつがよくあったが、それはみな自負心 だ。うぬぼれだ。うぬぼれをのければ、国家のために尽くすという正味の処は少しもないのだ。それゆえ に、

もしそんな自負心が起こったときには、おれは必死になってこれを押さえつけた。

お前も今日政府の役人であるから、あっぱれ国家のために尽くしているのだとうぬぼれているが、試みに そのうぬぼれをのけて平気に考えてみるがよい。車夫や馬丁がその主人に仕えるほかに、なお国家に 尽くすところがあるとすれば、お前のそれに比べてどうだろう」といって聞かせたら、お役人殿、「なるほ ど」と感服していったよ。

(氷川清話)


第18回 
何事をするにも、無我の境地に入らなければいけないよ。悟道徹底の極は、ただ無我の二字にほかなら ずさ。いくら禅で練り上げても、なかなかそうはいかないよ。いざというと、たいていの者がみだれてしまう ものだよ。

切りむすぶ太刀の下こそ地獄なれ踏みこみゆけば後は極楽

とは昔、剣客のいったことだ。歌の文句は、まずいけれども、無我の妙諦は、つまり、このうちに潜んでい るのだ。(氷川清話)


第17回 
昔の人は根気が強くて確かであった。またその根気の強いことといったら、日蓮や頼朝や秀吉を見ても わかる。

彼らはどうしても弱らない。

どんな難局をでも切り抜ける。しかるに今のやつらはその根気の弱いこと、その魂のすわらぬこと、実に 驚き入るばかりだ。しかもそのくせ、いや君国のためとか、何のためとか太平楽を並べているが、あれは ただ口先ばかりだ。(氷川清話)


第16回
一身の栄辱を忘れ、世間の毀誉を顧みなくって、そして自ら信ずるところを断行する人があるなら、世の 中では、たとえその人を大悪人といおうが、大奸物といおうが、おれはその人に組するよ。

つまり大事業をし遂げるくらいの人は、かえって世間から悪くいわれるものさ。

おれなども、一時は大悪人とか、大奸物とかいわれたっけ。しかしこの間の消息がわかる人ははなはだ 少ないよ。(氷川清話)


第15回 
西洋人の気長いのには、実に感心です。伊藤サンの外交のように、成功か、不成功がじきに分かるの は、あまり感心しない。李鴻章の今度の処置などは、巧みなのか、馬鹿なのか、少しもその結果の分か らないのには、大いに驚いています。大馬鹿でなければ、大変、上手(うわて)なのでしょう。

これまでの長い経験では、たいてい、日本人の目に大馬鹿と見えるのがエライようです。

(海舟座談)


第14回 
今の薩長のやつらは、どうも仕事ができないよ。本領を守ってどこまでもやり通すのが肝心だのに、本領 はさておいて、とかく小刀細工をしようとするから常に失敗するのだ。

天下の大勢を達観し、時局の大体を明察して、万事その機先を制するのが政治の本体だ。

これがすなわち経綸というものだ。この大本さえ定まれば、小策などはどうでもよいのさ。大西郷のごとき は、明治十年にあんな乱暴をやったけれども、今日に至って西郷をうらむものは天下に一人もあるまい。 これはひっきょう大西郷たるゆえんの本領が、明らかに世の人に認められているからだ。(氷川清話)


第13回
何事も知らないふうをして、独り局外に超然としておりながら、しかもよく大局を制する手腕のあったの は、近代ではただ西郷一人だけだ。

世が文明になると、皆が神経過敏になって、ばかのまねなどはできなくなるから困る。

(氷川清話)


第12回 
世の中のことは、時々刻々変遷窮まりないもので、機来たり機去り、その間に髪(はつ)を容れない。こう いう世界に処して、万事、小理屈をもって、これに応じようとしても、それはとても及ばない。

世間は生きている。理屈は死んでいる。

この間の消息を看破するだけの眼識があったのは、まず横井小楠で、この間に処して、いわゆる気合い を制するだけの胆識があったのは、まず西郷南洲だ。おれが知人の中で、ことにこの二人に推服するの は、つまりこれがためである。(氷川清話)


第11回
みンな、不平を洩らしに来るのだよ。たまったものじゃアありゃしない。外国人だってそうだ。皆政府が約 束を破った末をこっちに持ってくるのだもの。

また、書いたものを出そうと思って、あそこに書きかけてあるが、どうも、のぼせるからネ。

国というものは、決して人が取りはしない。内からつぶして、西洋人に遣るのだ。

(海舟座談)


第10回 
学問にこりかたまっている今の人は、声ばかりはむやみに大きくて、胆魂(きもだま)の小さいことは実に 豆のごとしで、からいばりにはいばるけれども、

まさかの場合に役に立つものは、ほとんどまれだ。

みんな縮み込んでしまう先生ばかりだよ。(氷川清話)


第9回 
世の中に無神経ほど強いものはない。

あの庭前のトンボをごらん。尻尾を切って放しても、平気で飛んで行くではないか。おれなども、まあトン ボぐらいの処で、とても人間の仲間入りはできないかもしれない。

むやみに神経を使って、やたらに世間のことを苦に病み、朝から晩まで頼みもしないことに奔走して、そ れがために頭がはげ、ひげが白くなって、まだ年も取らないのにもうろくしてしまうというような憂国家とか いうものには、おれなどはとてもなれない。(氷川清話)


第8回
君らには見えないか。大きな体をして、小さいことに心配し、あげくの果てに煩悶しているものが、世の中 にはずいぶん多いではないか。だめだよ。彼らには、とても天下の大事はできない。

つまり物事をあまり大きく見るからいけないのだ。

物事を自分の思慮のうちに、たたみこむことができないから、あのとおり心配した果てが煩悶となって、 寿命も何も縮めてしまうのだ。全体自分が物事をのみこまなければならないのに、かえって物事の方か らのまれてしまうからしかたがない。これもやはり余裕がないからのことさ。(氷川清話)


第7回
人は何事によらず、

胸の中から忘れ切るということ

ができないで、始終それが気にかかるというようでは、そうそうたまったものではない。いわゆる座忘(ざ ぼう)といって、何事もすべて忘れてしまって、胸中活然として一物をとどめざる境界に至って、始めて万 事万境に応じて縦横自在の判断が出るのだ。しかるに胸に終始気がかりなるものがあって、あれの、こ れのと、心配ばかりしていては、自然と気がうえ、神(しん)が疲れて、とても電光石火に起こりきたる事 物の応接はできない。(氷川清話)


第6回
この間の西洋人が祈ってくれたが、

「あなたは、神様のお護りがあったのだ」

とまじめに言ったよ。お世辞かしらと思ったら、そうではなかったよ。(海舟座談)


第5回 
オレは先達って、米国人が来たとき、公然とはなした。アナタの国は、色々の産物があるが、日本にもそ れにまけないものがあります。

女です。

どうです。これからまだまだ多くなります。どんどん輸出するつもりですと言ったら、御冗談をと言うたが、 冗談じゃない。(海舟座談)


第4回
一体、政治家は、機勢の変転というものを見なければならぬ。

ワシはもと西洋人の言うた七年一変の説ネ。アレを信じているのだ。

どうも七、八年ないし、十年にして人心が一変するよ。流行だと、人が言うが、ソウいうものじゃあ、ありや しない。維新までに三変したよ。

私は、七で推す人だからね。

七七、四十九年で、徳川の事も知れて来ると思っていたが、こう早くはなるまいと思っていたよ。(海舟座 談)


第3回
ナニ、誰を味方にしようなどというから、間違うのだ。みんな敵がいい。

敵がいないと、事ができぬ。国家というものは、みんながワイワイ反対して、それでいいのだ。オレなどは その剣幕だった。アー、溝口が知ってらあ。『みんな敵になったから、これなら出来ます』と言った。あまり に大言だというたが、そうじゃあないか。(海舟座談)


第2回
おれはいつもつらつら思うのだ。およそ世の中に歴史というものほどむずかしいことはない。

元来、人間の知恵は未来のことまで見透かすことができないから、過去のことを書いた歴史というものに かんがみて、将来をも推測しようというのだが、しかるところ、この肝心の歴史が容易に信用せられない とは、実に困ったしだいではないか。見なさい。幕府が倒れてからわずかに三十年しか経たないのに、こ の幕末の歴史をすら完全に伝えるものが一人もないではないか。それは当時の有りさまを目撃した古老 もまだ生きているだろう。

しかしながら、そういう先生は、たいてい当時にあってでさえ、局面の内外表裏が理解できなかった連中 だ。

それがどうして三十年の後からそのころの事情を書き伝えることができようか。いわんやこれが今から十 年も二十年もたって、その古老までが死んでしまった日には、どんな誤りを後世に伝えるかもしれない。 歴史というものは、実にむずかしいものさ。(氷川清話)


第1回
昔から、大功のあった人は、人が知らないよ。

久しうして後に分かるのだ。それが、大変好きで、昔から、それを守ったよ。ナニ、忠義の士というものが あって、国をつぶすのだ。オレのような、大不忠、大不義のものがなければならぬ。(海舟座談)