三輪の神


万葉集1.18


三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなも 隠さふべしや     額田王


(歌意) 懐かしい三輪山をそんなにも隠すのか。せめて雲だけでも思いやりの心があって ほしい。そんなにも隠し続けてよいものか。





額田王が詠んだ三輪山の歌。彼女はただ三輪山との別れを単純に惜しんで、あのような 歌を詠んだのだろうか。一般的な解釈によればそうだろう。


だが私には、彼女が「未来の人よ、どうかこの歌のなぞを解いてもらいたい。あの山に 鎮まっている方にまつわる秘密を...」と訴えているように思えてならない。


そもそも万葉集1巻の17番から19番の一連の歌は、その構成が、当時の万葉集編者 にも奇妙に映っていたらしい。その証拠に、「旧本の構成がこの通りだったので、その まま載せた」と注記している。 


三輪の神について、大がかりな隠蔽工作があったということは、すでに多くの人がいろ いろな場所で指摘してきたことだが、にもかかわらずそれは、現代風の言い回しを用い るなら、依然として〈サブカルチャー〉の世界にのみとどまり、さらに広い世界へと飛 び出すことができないでいる。


1300年ほど前に額田王がなしたなぞかけが、長い時を経て、いつか明るい日のも で、解かれる時が来ることを願っている。私たちはその準備のお手伝いをしたい。(01. 09.20)


補足:ごく最近、初期万葉集の編者ではないかと目されている柿本人麻呂こそ、何かを 伝えたかった張本人だったのかも知れない、などと思ったりもしている。しかし、今の ところ、こういった考え方には何の根拠も挙げられない。