古代日本正史1




梅原猛氏の著作に『神々の流竄』(集英社 梅原猛著作集8)というものがあります。 この本の解説を引き受けた上山春平氏は、巻末で梅原氏の論文の内容を要約して、こう 述べています。

「つまり、記紀の神代巻は、『神々の流竄』をともなう宗教革命の決算報告であり、そ の革命を推進し、その報告を作り上げた中心人物は、いわゆる『大化改新』の影の主役 であった藤原鎌足の子、不比等であった、というのである」(P571)

「流竄」は「るざん」と読み、『神々の流竄』とは、文字通り「神々の追放」という意 味です。両氏は、「流された神々」は、律令制確立にあたって、それに反対し、抵抗し た在来の勢力の奉ずる神々で、その流された土地が出雲だった、と言っています。私た ちが日本の遺産として大事にしてきた『古事記』と『日本書紀』の神代巻は、時の権力 者、藤原不比等による贋作である、と断じているのです。

日本の神話を研究している学者一般に共通している態度というのは、一体どういうもの でしょうか。それは、どのような説であれ、彼らが『記紀』の神代巻を空想の産物と見 なしていることに変わりはないということです。この論文では、上山氏、梅原氏もその 前提に立って、論理を展開しています。

しかし、ここに多くの学者が考えようとしてこなかったこと、すなわち「神々=実在の 人間説」を唱えた、一人の在野の研究者がいます。その人の名を、原田常治氏と言いま す。このような書名を見ると、すぐに『上記』や『宮下文書』や『竹内文書』や『秀真 伝』などを思い出してしまう方々もいらっしゃるかもしれませんが、原田氏は「超古代 史」を語っているわけではありません。

原田氏は、『記紀』成立以前から存在していた神社を実際に自分の足を使って調べるこ とで(何の神様が祀られているか、神社の由来はどのようなものか等)、自分の説の正 しさを証明しようとしたのです。考えてみれば当然の話で、『記紀』に書かれてあるこ とと、実際に神社に祀られている神様たちの神社側の記載事項を比べてみると、両者が 相当にずれていることが多いのです。原田氏はそこに目をつけて、広範なフィールドワ ークの末、ひとつの結論に達しました。

「日本書紀は天武天皇の時、編集長一人、編集者十二人、書記一人の十四人に命じて勅 令で書かせたで、38年かかってできた。その日本書紀が応神天皇の項までを書き上げ た持統天皇のときに、ウソ八百の創作の歴史を書いて、それでもどうしてもごまかしき れないところはお伽噺のような、神話形式にしてごまかした。そのウソ八百ででっち上 げたもののばれることを恐れて、神社の古文書を二社取り上げ、あるいは、ほんとうの ことを書いてあったと思われる系図を十六家取り上げて没収した。691年のことであ る。それが残っていたら自分たちの書いたウソがばれるということで、二社、十六家の 系図を没収して抹殺してしまったという資料をつかんだ。」(P33)

上山氏や梅原氏と同じように、7、8世紀にかけて政治的な謀略があったことは原田氏 も主張しています。ところが、そこから後の展開が上山氏や梅原氏とはまったく異なっ ているのです。

「いまの天照大神は、もちろん古事記、日本書紀、少なくとも持統天皇以前には天照大 神ではなかった。その以前の天照大神は男の人であった。素佐之男尊の五番目の子供 で、天照国照大神(アマテラスクニテラスオオカミ)という諡号(おくりな)〔死後に、 その行状などによっておくる名〕になっている。これが持統天皇の時までの天照大神 で、いまの天照大神は九州でお生まれになって九州で亡くなられているから、日本を照 らすという「天照らす」という諡号はついていなかった。これは、伊勢の皇大神宮にも どういう諡号でまつられているか、調べてみたら天照大神とは書いていなかった。それ 以前のほんとうの天照国照大神を抹殺するためにつくった、それが目的でつくったと思 われるほど、この人をわからなくするための細工がしてあった。(中略)特に日本書紀 には、素佐之男尊が天照大神の弟のように書いてあるが、実際は素佐之男尊が122年 ごろ生まれ、いまの天照大神は153年か4年頃の出生である。」(P35-P36)

前代未聞のことが淡々とした筆致でさらりと書かれています。かつて大和の偉大な神だ った人が、ある集団によって消されてしまったと。

二柱の天照大神が存在するのです。原-天照大神と現-天照大神です。それでは歴史から 消された最初の天照大神とはいったい誰だったのでしょう。先に結論を言ってしまいま すと、それは素佐之男尊の五番目の子供、すなわち饒速日尊( ニギハヤヒノミコト)だ と言うのです。それでは、今の天照大神とはいったい誰なのでしょう。これを原田氏は 大日霊女貴尊(オオヒルメムチノミコトあるいはオオヒミコムチノミコト) 、すなわち 邪馬台国の女王卑弥呼だと言います。さらに氏は、邪馬台国=高天原は、日向、つまり 今の宮崎県の西都市にあったと断定しています。

それでは、なぜ二人の天照大神が生まれたのでしょう。原田氏はこう言っています。

「それならなぜ、これだけ偉かった、あらゆる信仰の的だった天照国照大神を、苦心惨 憺して、おとぎ話(神話)まで作って、歴史から消したのか。日本書紀、古事記を書い て、二神社、十六家の系図を没収抹殺して、日本の古代を塗り変えたのか。どこにそん な必要があったか。原因はやはり仏教の渡来にあった。宗教とは恐ろしいものである。 仏教が渡来して、風の吹きまくるように広まった。その時、この饒速日大王の直系の子 孫、物部氏は、この仏教に反対した。特に物部守屋は、寺をこわし、仏像を棄てさせ た。一つには、日本伝来の神様信仰から仏教信仰に移り変わることに我慢ができなかっ たのであろう。神、仏の対立は海石榴市(ツバイチ)の善信尼の尻叩き刑で極点に達し た。仏教徒はついに物部氏打倒ののろしをあげた。この情勢に便乗したのが蘇我稲目、 馬子で仏教徒をせん動して、物部守屋討伐戦を起こし、これが成功して、神武天皇以来 権力の座にあった物部氏に代わって、蘇我氏が天下をとることになった。そして、仏教 は勢いに乗って神社を侵蝕し、大神(オオミワ)神社に大三輪寺を併せ、その他全国の主 なる神社に仏教の寺院を併用して建てさせ、神仏混淆政策をとった。神様の力をうすめ るためである。しかし流石に饒速日大王の宗廟、石上(イソノカミ) 神宮だけは、寺院を 建てさせなかった。また、代々の天皇も仏教に帰依した。物部守屋没落後、仏教勢力が 燃え上がるにつれて、天皇の祖先が、その仏教反対をした物部氏の直系の先祖であるの はどうしても具合が悪くなってきた。幸い、神武天皇は、日向の系統である。そこで出 雲の系統を何とか抹殺できないかと考え、だんだんその機が熟し、とうとう日本の歴史 書き替えの決心をされたのが、第四十代天武天皇の時だった。物部氏没落から約百年の 後である。」

大日霊女貴尊(卑弥呼)は素佐之男尊の三人の娘を生む前に、すでに日向の者との間に 二人の子供を生んでいました。天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)と天穂日尊(アメ ノホイノミコト) です。のちに素佐之男尊が出雲に帰還すると、また日向の者との間に 三人の子供を生みました。瓊々杵尊(ニニギノミコト) 、火々出見尊(ホホデミノミコ ト)、鵜茅草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)です。古代の結婚観が現代のものとは 異なっていたからこそできたことでした。

出雲で生まれた素佐之男尊の子(須世理姫)と日向で生まれた素佐之男尊の子(多紀理 姫)が、共に大国主尊の妻になっています。大国主尊は気の弱い性格だったらしく、居 心地の悪い出雲の妻のもとにいるよりも若い日向の妻のもとにいることを好み、最終的 には日向で亡くなります。西都の膨大な円墳群の中に一つだけ方墳が存在しています が、これが大国主尊の墓陵であると原田氏は言います。方墳は日向系の墓の作り方では なく、出雲系の作り方であるというのがその主な根拠となっています。

のちに同じ父(大国主尊)の血を受けた、出雲方の武御名方富尊(タケミナカタトミノ ミコト)と日向方の事代主尊(コトシロヌシノミコト)が出雲の相続権をめぐって戦争 を起こします。結局、武御名方富尊は出雲を追われ、諏訪の地におしこめられて一生を 終えました。血筋から言えば、武御名方富尊の方が純粋な出雲系なのですが、儒教が入 る以前の日本は末子相続を行っていましたので、それで順番からいえば大国主尊にとっ て末子であった日向系の事代主尊側が相続権を主張して、出雲に乗り込んできたので す。この争いに負けた武御名方富尊側の怨念やいかばかりのものがあったことでしょう か。現在諏訪大社の祭神として尊崇をうけている神様こそ、この武御名方富尊でありま す。


「この本を世に出すについて、一応皇室の立場でも考える必要があると思った。その結 果が、やはりこれは絶対出さなければいけない。日本書紀、古事記のウソのままにして おくために『天照大神は弟の素佐之男の子を生んでいる』とか『七代までの天皇は実在 しなかった』とか、その他、皇室に対して面白くないことが、だんだん多く言いふらさ れてきた。日本武尊(ヤマトタケルノミコトや神功皇后まで、歴史から抹殺されてしまう かもしれない。このまま放っておいたらどんなことになってゆくか心配である。この 際、はっきりとわかったことは、発表したほうが、皇室のほうでも、モヤモヤいわれる ことがなくなって、すっきりするのではないかと思う。天照大神の称号にしても、昔は そうでなかったのなら、それでいいのではないか、無理にウソを押し通さないほうが、 将来の皇室のためにもよいのではないか。神武天皇が、大和へ養子に来られたことも、 それが事実であれば、この際はっきりさせておいたほうがよいのではないか。現実に、 今でも皇居で、11月22日の夜、神武天皇の舅である歴史から消された天照国照大神饒速 日尊の鎮魂祭を行っておられる。(中略)また瓊々杵尊 、日子火々出見尊,鵜茅草葺不 合尊等の御陵には、現在、宮内庁詰所があって、制服の役人をおいているし、西都の天 照大神、豊受姫の二大古墳も、柵をし、拝殿をつくって宮内庁でキチンと管理されてい る。そのように現在皇室では、神話でない本当の正しい歴史で一切の行事をおやりにな っていられるのだから、それを発表して悪い理由は何もないと思う。」(P11)

「西都の天照大神、豊受姫の二大古墳」とありますが、実際には、西都原の墓陵の案内 板にはそのようには書かれておりません。男狭穂塚(オサホヅカ) 、女狭穂塚(メサホヅ カ)と称し、瓊々杵尊と木花咲耶姫の御陵だと伝えています。

原田氏は、「真実を発表して悪い理由は何もないではないか」と書いていますが、実際 には今でも宮内庁管理の遺跡は厳格に管理されて、学者たちの探索行為を拒否し続けて います。天皇家に沈黙を強いてきた原因は一体何なのでしょう。もしかしたら、本当に それは、7、8世紀の政治的宗教的激動にその端を発しているのかもしれません。

しかし日本の神々にまつわる真実は今なお闇の中なのです。