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神武天皇1 神武天皇2 神武天皇3 瓊々杵尊1 瓊々杵尊2


神武天皇2




宮崎県日向市米の山周辺













2001年09月17日

001 大御神社(撮影01.09.09)



大御(おおみ)神社

「日向のお伊勢さま」と呼ばれている神社。

この神社には境内にフェニックスの木がたくさん植えてある。

写真上部にそのフェニックスの葉先が紛れ込んでしまった。

拝殿の向こうは太平洋である。





2001年09月17日

002 大御神社御由緒並びに沿革(撮影01.09.09)

大御神社御由緒並びに沿革

御祭神 天照皇大御神

   大御神社は、皇祖天照皇大御神を御祭神とする古社で、創建の年月は詳らかではないが、当社に伝わる「神明記」その他の古文書によれば、往古、皇(すめ)大御神、日向の国高千穂に皇孫瓊々杵尊(ニニギノミコト)天降し給うた節、尊は当地を御通過遊ばれ、千畳敷の磐石にて、これより絶景の大海原を眺望され、皇祖天照皇大御神を奉祀して平安を祈念されたと伝えられ、後世、此の御殿の霊石の在りし所に一宇を建て、皇大御神を勧請し村中の鎮守と崇敬し奉ると言う。
   また、神武天皇御東征の砌、大鯨を退治された御鉾を建てられたことから、鉾島が細島に転じたと伝えられているが、天皇はこの時、伊勢ケ浜(脇の浜)から、港に入られ、皇大御神を奉斎する御殿(現在の大御神社に武運長久と航海安全を御祈願されたと伝えられ、大御神社の西に横たわる櫛の山と、東に隆起する米の山は、神武天皇の先鋒の天櫛津大久米命の名に因むものであるとい言う。
  その後、当社は日知屋城主伊東氏ら歴代城主はもちろん、延岡城主、漠領代官等に尊崇され、地方の民も「日向のお伊勢さま」と呼んで尊崇し、且つ親しんできたのである。最近ことに、御神徳を慕って県内外の参拝者が激増している。
  大御神社の社名は、天照皇大御神の大御をいただいて社名とした、と伝えられている。現在の御社殿の改築は昭和十三年に完成し、資材は高千穂地方の神社の境内木が使用されている。

  例祭日  十一月十五日・十一月十六日




2001年12月01日

003 伊勢ケ浜から米の山を望む(撮影01.11.25)

この伊勢ケ浜の隣(写真右方向)に大御神社がある。

神武天皇はこの浜に舟を乗り入れて、大御神社に立ち寄られたと、大御神社の由緒書に書いてあった。


写真手前の小山のさらに奥にちょっとだけ顔をのぞかせているのが米の山頂上である。神武天皇が鉾を建てたと伝わる場所であろうと思う。


戦前までは、この山の頂上から、この伊勢ケ浜にかけて大磐境(神籠石)があったが(当ページ010「八大龍王碑」参照)、戦争の混乱で多くが失われてしまった。(参照ページ「戦前の米の山」参照)






2001年11月20日

004 米の山遠景(撮影01.11.18)


大御神社の由緒書に「神武天皇が東征の折りに、鉾島に鉾を建てられた」という記事がでてくるが、この山の頂上に「八大龍王」と銘打たれた石碑(メンヒル)がある。



この米の山のすぐ向こう側が鉾島、今の細島である。 



戦前の資料によると、この山の頂上から伊勢ケ浜方向に向かって大神籠石群があったそうだが、今はその面影はなく、頂上は今パラグライダーの発進基地になっている。







2002年01月11日

005 櫛の山(撮影01.11.18) 


神武東遷時の護衛役大久米命にちなんで名付けられた山である。


004の「米の山」の写真を撮った位置から反対方向を振り返ると、目の前を走る道路(ちょうど「お倉ヶ浜有料道路」に入る手前の道路)を挟んで反対側の位置に「櫛の山」は存在する。


写真左方向は大御神社である。大御神社の入り口鳥居右側に、櫛の山へ至る道路が伸びているので、この山を訪れたい人はその道を使うといいだろう。


写真の山頂に見えるのは仏舎利塔である。





2002年01月11日

006 仏舎利塔(撮影01.11.25)


櫛の山頂上にある仏舎利塔の写真である。


時間的に逆光で撮らざるを得なかった。


太陽は塔のてっぺんの背後に隠れている。


インドのネール首相から贈られた仏舎利が納められている。


大久米命に縁のある山に仏陀の骨が祀られている。


ちょっとおもしろい取り合わせだ。





2001年11月20日

007 鉾島神社(撮影01.11.18)


米の山に向かう途中間違って細い路地に入ったら、右手に幟を立てた神社があった。


急遽車から降り、かなり急な石段を登ってみた。鉾島神社という。


ここが鉾が建てられた場所だとは思えないが、由緒がわからないので、今はなんともいえない。特に由緒書きらしきものはなかった。


この神社のある路地から米の山の最外周部を巡る道路に出て、そのまま車でまっすぐ進むと、上り坂になる。そのまま登り続ければ、米の山展望台に至り、そこで車を降りて徒歩でさらに登ると、頂上の八大龍王碑に至る。





2001年11月20日

008 櫛の山遠景(撮影01.11.18)


米の山から櫛の山を望む。


写真中央辺りに白い仏舎利塔を頂上に頂く櫛の山が見える。


その左隣のおにぎり形の小山の手前が伊勢ケ浜であるが、写真では完全に隠れてしまって見えない。神武天皇は、その伊勢ケ浜から上陸した。


そのおにぎり形の小山と仏舎利塔を頂く櫛の山の間に大御神社がある。


[参照]ページに載せた「戦前の米の山」の写真の位置関係を比べてみてほしい。






2001年11月20日

009 米の山展望台にて(撮影01.11.18)



米の山展望台から延岡方向を望む。



写真中央部の小山の連なりを越えると延岡に至る。



伊勢ケ浜から上陸した神武天皇は大御神社に立ち寄ったあと、徒歩でこの鉾島(現米の山)頂上に登り、鯨退治の鉾を立て、再び伊勢ケ浜に戻ると、そこから延岡を目指して舟出した。









2001年11月20日

010 八大龍王碑(撮影01.11.18)

八大龍王碑(高さ1.8メートル、幅0.8メートル)

西郷隆盛関係の著書を多く執筆している日向出身の作家河野弘善氏の言葉が延岡の夕刊紙で以下のように紹介されている。(93.04.24)

   大正15年(1926)にこの巨石遺跡を調査した鳥井龍蔵博士は、ストーンサークル(磐境)とメンヒル(立石)と断定された。その折り、町民側から「立石は大昔から自然のままあったのでは?」という素朴な質問が出た。すかさず博士が「石がひとりで歩いてきて立ちますか」と答えられた、という話が残っている。
  10数年も前のこと、鳥井博士の著書「上代の日向延岡」を読んでいたら、その中に米山頂上より下に走行する大磐境(神籠石)≠フ写真が載っていた。私は少年時代その実物を見た記憶があるので、のちに帰省し頂上の西の広場に案内された時友人に尋ねてみたが、誰一人そんな石の長い列が伊勢ケ浜方面へ連なり下っていたことを覚えている者はいなかった。私は唖然として自分の記憶が間違っていたのかと大ショックを受けた。
  ところが、写真を見て神籠石の存在が幻でなかったことを確認し、再度の帰省の折りに尋ねてまわったら、ある人が太平洋戦争中に財光寺の海軍飛行場拡張工事に使用するために撤収したのだ、と解答してくれた。(この時新聞に載った戦前の米の山の写真は参照ページ「戦前の米の山」参照のこと。)


これは神武天皇にゆかりがある何かなのだろうか。これがメンヒルだとすると、神武天皇が舟出をした美々津の港にもあったメンヒルとも何か関連があるのかもしれない。

ただ八大龍王は雨乞いの対象となる神で、写真中に見られる幟は、地元の漁師さんたちが立てたものなので、今ではこのメンヒルは天候を支配する神として祀られているのかもしれない。

実はこの立石のすぐ奥にはたくさんの石が円く積み上げられているのだが、生い茂った木々のために、それをうまく写真で撮ることができなかった。






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