古代日本正史2



原田氏の『古代日本正史』は、ひとつの歴史物語として読んでも大変面白いものです。 それをここに要約するのは少々無理があるんですが、しかし、不備を承知で簡単にまと めてみましょう。

素佐之男尊は西暦122年頃、出雲国沼田郷で生まれました。現在の島根県平田市平田 町です。素佐之男尊の父の名はフツ(布都)と言いました。フツというのは蒙古満州系 の名前で、素佐之男尊の本名はフツシ(布都斯)といい、素佐之男は通称でした。原田 氏は、出雲は北方系モンゴロイドに属し、日向は南方系モンゴロイドに属していたと言 っています。ですから素佐之男尊の子や孫たちは、みな日本名とは別に蒙古満州系の名 前を持っていました。(かつて話題になった江上波夫氏の『騎馬民族国家』という書物 の価値を、ただ妄説にすぎないと言って切り捨てるのではなく、再び考えてみる必要が あるのではないでしょうか。)

日本建国の祖である出雲の素佐之男尊は、五男の饒速日尊(蒙古名フル)を連れて九州遠 征に向かいました。日向の大日霊女貴尊(卑弥呼)らは素佐之男尊の進軍の勢いを伝え 聞いていたので、むしろ進んで国を素佐之男尊らの騎馬軍団に明け渡しました。素佐之 男尊は日向の占領軍指令長官として約10年間とどまり、卑弥呼との間に三人の娘を儲け ます。息子の饒速日尊は九州平定の後、大和へ向かい、それまで大和を支配していた長 髄彦(ナガスネヒコ)の妹の三炊屋姫(ミカシギヒメ)を娶り、長髄彦は戦わずして饒速 日尊の客分として従属しました。いわゆる政略結婚による無血開城です。

当時の西日本は、日向、出雲、大和と大まかにみて三極構造を構成していました。出雲 の素佐之男尊が亡くなり、その後大和の饒速日尊も亡くなると、政治的なバランスに変 化が生じました。大和の饒速日尊と三炊屋姫との間には何人かの子供が生まれました が、当時は末子相続が慣例でしたから、いずれ大和は、末子である伊須気依姫(イスケヨ リヒメ)に養子を迎えねばなりません。まさにこのような時期に、日向、出雲、大和の 三つの国が次世代の支配者を巡って政治的に激突します。まず出雲が日向の軍門に下り ました。日向はさらに大和地方を自分たちの勢力下に置きたいと考えます。しかし、で きるなら戦争は避けたい。

大和の相続人伊須気依姫の代理ですでに20年もの間、この地方を仕切っていた饒速日 尊の長子宇摩志麻治尊(ウマシマチノミコト)は、日向側からの提案を受け入れます。 すなわち解決策として大和は日向の国の大日霊女貴尊 、つまり邪馬台国の女王卑弥呼の 孫である伊波礼彦尊(イワレヒコノミコト)を伊須気依姫の養子としたのです。そのた め、日向ですでに結婚していた伊波礼彦尊は、日向に妻子を残して大和へ旅立たねばな りませんでした。政略結婚によって、両地方は戦闘を回避したのです。ところが、伊須 気依姫の伯父にあたる長髄彦は、日向との養子縁組に対して反対派に回ります。原田氏 は、その長髄彦についてこのように語っています。

「あるいは、鈴鹿山脈を越して、大和へ入り込んでいたアイヌ民族だったのかも知れな い。アイヌには末子相続の習慣がなかったので、よけいにこの養子縁組が納得できなか ったのかも知れない。しかしこれについては確証はない。……(神武天皇の行路につい て)当時はほとんどが水路交通時代だったから、大和川を上って行ったと考えるのが常 識である。大和川を上り下りした古い記録はたくさんある。長髄彦としては、日向から 養子を貰うことには、伯父としてあくまで反対だった。そこで伊波礼彦の一行がのこの こと上ってきたから、カッとなって追い返したのは当然である。(P427-P428) 」

ちなみに、魏志倭人伝に「卑弥呼が亡くなった後、男王を立てたが国が乱れた。そこで 卑弥呼の宗女台与(トヨ)という十三歳の娘を王として立てると国中がそれに服した」と 出てくる台与とは、卑弥呼のひ孫、すなわち卑弥呼の孫たる伊波礼彦尊の娘豊受姫その 人に他なりません。