瓊々杵尊1




2001年11月20日

001 天下神社(撮影01.11.18)





古事記神話上では神武天皇の曾祖父にあたる瓊々杵尊(ニニギノミコト)の伝説地を紹介 したい。

瓊々杵尊の陵墓というと、鹿児島県川内市の新田神社が正規とされているが、私の知る 限りその他の伝承地があと三か所ある。その三か所はいずれも宮崎県内にある。

一つはここ延岡市天下(あもり)町にある天下神社である。

もう一つは西都市西都原古墳群の中の一つにその伝承が残っている。

そしてもうひとつは延岡市北部に隣接する北川町俵野可愛岳ふもとである。


この日はちょうど天下神社(小山の上にある)のお祭りの日で、この神社の関係者たち がこの神社の左手の広場で宴会をしていた。私は会釈をして、拝殿を3枚撮った。その うちの一つがこれである。
















2001年12月20日

002 天下神社裏手(撮影01.11.18)




天下神社の裏手で、伝説の巨石が祀られていた。


分かりにくいだろうが、写真中央にその巨石の露出部が見える。


この日は祭壇が設けられ、お供え物が捧げられていた。


私が初めてこの場所を訪れたのは93年の4月だった。その当時はこの神社へ登る石段 の麓を通る道は車一台横付けすると他の車が通り抜けることもできなかった。もちろん 舗装されてはいなかった。向かい側は小さな畑があった。


今は大きな舗装道路が通り、あの頃の面影はない。この道の先に保健福祉大学ができた ための道路整備だった。












2001年11月20日

003 祀られる巨石(撮影01.11.18)





この古墳のとなりに1号古墳と呼ばれる全長71mの前方後円墳があり、そこも神社に なっているが、瓊々杵尊陵墓と言われているのは、この写真の2号古墳の方である。 (001写真のちょうど裏手である。)

円墳で、高さが4.1m、直径は25mあり、封土の一部がとり除かれ、巨石の一部が 露出している。また1号古墳、2号古墳とも未発掘である。

写真でもはっきり見てとれるように、この2号古墳の巨石に刻まれた石工の楔の跡に は、昔、村人が神社敷地を拡張するためこの石を割ろうとして楔を打ち込んだところ、 無数のカラスが襲いかかろうとしたため、村人は「神の怒りだ」と恐れてそのままにし たという言い伝えが残っている。いまでもこの辺りはカラスが大変に多い。

神社のために墓を破壊するとはにわかには信じがたい行為だが、実際ここは半分破壊さ れた墓の上に築かれた神社なのである。

思うに、裏のありそうな話ではある。

「この場所の土を外へ持ち出すとどんなたたりがあるかわからないので、けっして土を 持ち出してはならぬ」という趣旨の看板がこの写真の写っている場所の左側に立ててあ った。

原田常治氏の『古代日本正史』をお持ちの方は、P307を参照していただきたい。そ の写真のカラー版がこの003の写真である。なお、原田氏自身は天忍穂耳尊(アメノ オシホミミノミコト)の墓を探して、ここまで来られたようだ。

以下、現地に立ててある由緒書を紹介する。

 古墳歴

(二号古墳) 

 天下(あもり)神社の後方に有り現在大きな石が出ていますが、これは言い伝えによ りますと村の人々が神社建設の際山を切り取った時にこの石が出てきたので石工が神社 の石段として割り出そうとしたところ頭上に多くのカラスが舞い下りて仕事を留めるよ うに鳴き散らし又仕事にたずさわっていた人々が倒れる等した等割ってはならない石で あらうと言うことで作業を取り止め現在に至ったものであります。
 この古墳は高さ二米八○、直径東西二十六米五○、南北十二米、の大きさで大正十二 年十一月十六日元延岡城主内藤家の協力にて考古学者石塚直太郎博士と村上兄一氏が東 京より招聘され調査の結果ご神体は日子番邇々芸尊(天照大神のご子息)の塚であると 今日まで伝えられています。
 現在このお方の御神徳は棟木(むなぎ)の神であらせられます直古墳のお告げにより 邇々芸尊であるとして大正十二年から今日までお祭りをされている人に延岡市出北町に 住まれている前田正恵という方がおられます。

昭和五十一年十一月吉日

右 天下世話人会









2002年02月23日

004 笠沙山[現 愛宕山](撮影01.12.31)





瓊々杵尊ゆかりの地と伝わる笠沙山(現 愛宕山)である。山の東側から撮影した。

延岡市民は愛宕山と聞けば「ああ、あの山ね」とすぐにイメージすることができるけれ ど、「この間、笠沙山に登ってきたよ」と聞いたら、「そんな山、延岡にあったけ?」 と答えるに違いない。つまり延岡市民の誰もがこの山のもとの呼び名を知らず、したが ってこの山の呼び名の背景に「神話」が横たわっていることを忘れてしまっているの だ。

『延岡ガいーどマップ』にはこう書いてある。

標高251mのこの山は、もと笠沙岬とか笠沙山と呼ばれ、ニニギノ尊と木花咲耶姫の 宮居の神話にちなんだ伝説の地である。周辺には沖田・片田などの貝塚が多いことから 古代は海に突き出した半島であったと考えられる。慶長年間高橋元種が延岡築城の際、 山上にあった愛宕神社をこの地に移したことから山の名も愛宕山と改められたといわれ る。


「笠沙」といえば、今は鹿児島県の笠沙町が注目を受けてばかりいるが、なぜ日向市・ 延岡市・北川町等、宮崎県北地域に、これほどニニギ伝承が残っているのか、その理由 ははっきりしない。













2002年02月23日

005 笠沙山碑(01.12.31)





愛宕山(笠沙山)の山頂には展望台があって、そのすぐ近くにほとんど誰からもその存 在を注目されない、この山が「笠沙山」だということを伝える碑が建っている。

私は少年時代から何度も学校遠足や家族のピクニックでこの山の頂上まで登ってきたけ れど、このような碑があること自体を知らなかった。目に入っても見えないものという のは、確かにあるのだ。










2002年02月23日

006 展望台(撮影01.12.31)





私が少年時代からなじんできた展望台はこのような姿をしてはいなかった。昔はこの写 真のような屋根はなく、二階には売店があり、食堂があったのである。本当によいとこ ろだったが、時代の変化とともに建物の骨格だけが残されて、今では夜になるとイルミ ネーションで光り輝く別な建物に変わってしまっている。

延岡の30代、40代以上の人々は、ここに売店があったことを懐かしく思い出すこと ができるだろう。それで、遺跡巡りとはなんの関連性もないが、もしかしてたまたまこ のHPを訪れてくれた私と同じような記憶を共有する延岡人のために、私の少年時代の 展望台もあわせてここに載せておこうと思う。




この写真の中に「笠沙山碑」も見える。こんな場所に建っていたのにずっとこれが何な のか分からなかったのである。

この展望台からのパノラマ写真(360度の連続画像)を見ることができるので、以下 にそのサイト紹介したい。

パノラマ延岡








2002年02月23日

007 春日神社(撮影01.12.31)





この神社は私の少年時代の遊び場のひとつだった。ここは、かの原田常治氏も訪れた神 社である。


天児屋根命
武甕槌命
斎主命
姫大神

ほか五神を祀る。


以下、由緒書抜粋

此の地は上古五ヶ瀬川の中島にありて荒瀬宮(あらせのみや)と称せり。祭神四柱の大 神は畏くも皇祖瓊々杵尊日向高千穂の久志布流峰に降り給ひ、その後吾田の笠沙御前に 遷り給ふ時の随神英傑の神々にして古来笠沙山の麓に斎ひ祀る。


天孫(日向)系の神社には普通狛犬は見られないが、この神社には出雲系の神社にいる はずの狛犬がいる。

神域内における狛犬の有無にどのような意味があるのか、いまのところ、私には詳しい ことは分からない。だが興味深いテーマのひとつである。

















2002年02月23日

008 愛宕神社(01.12.31)





愛宕山(笠沙山)中腹にある愛宕神社である。

ここに愛宕神社を移した高橋元種は漢の劉邦の子孫と名乗っていたらしい。

最近、地元夕刊紙に、世界に散らばった劉邦の子孫の大会が開かれ、高橋氏の子孫もそ れに参加したという記事が出ていた。劉邦とはもちろん、司馬遷の史記で有名な漢の支 配者高祖のことである。紀元前200年前後に活躍した人物の子孫が日本で侍になって いるというのも面白い話である。

追加情報 2003.9.23

参考

高橋元種さんは、もともと、こちらの方ではございませんで、福岡県に甘木という所が ございまして、秋月種実という猛将がいました。秋月家といいますのは、古代中国・漢 の高祖『劉邦』が遠祖、一番最初の先祖でありまして、この子孫阿知使主(あちのお み)が応神天皇の二十年(289年)に日本に渡ってまいりまして播磨国(兵庫県)の大蔵谷 に住みその子孫が『大蔵』(おおくら)という姓を名乗り『春実』という名を朝廷から受 けました。『大蔵』というのは、今でいえば財務省の長官みたいなものでしょう。です から朝廷の財務を担当していて、やがて天慶年間(938年-947年)に、東では平将門、西は 藤原純友が乱を起こしたときに、征西将軍つまり討伐軍の総指令官に任命されました。 この時に、福岡と佐賀の境の鳥栖の近くに城を構えました。そして藤原純友討ったあと には『原田』を名乗りました。この大蔵一族というのが、一郎、二郎、三郎、四郎、五 郎がいまして、一郎が『原田』、二郎が『秋月』を名乗ったということになります。 (2003年9月16日の地元『夕刊デイリー』紙に載った「延岡城築城四百年記念祭」におけ る童門冬二氏の講演より)