天忍穂耳尊


天照大御神(大日霊女貴尊)には8人の子供がいた。

その五男三女の大部分の消息は各地に残る神社等の記録によってあとづけることができ るのだが、ひとり長子の天忍穂耳尊だけがはっきりしたことが分からない。この神の眠 る場所を探し出し、今どこに眠っているのかはっきりさせたい、そういう思いが私には ある。

天忍穂耳尊の諡号を『古事記』では、

正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)

『日本書紀』では、

正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)

と申し上げる。


学研が出している『日本の神々の事典』には、神名の「正勝吾勝」を指して、

須佐之男尊による勝利宣言にちなむ名で、「正しく勝った、私は勝った」という意味を 示し、続く「勝速日」も素早い勝利(勝速)の神霊(ヒ=日)という意味を表している といわれる。(P90)

と書いてあるが(物語の詳細は『記紀』参照のこと)、もちろん『古事記』の物語に附 会した説明であるゆえ、鵜呑みにはできない。ただ、戦闘に関連のある諡号ではあろう と思う。

『日本書紀』に登場する「速日」という名を持つ神はほかに火速日神(ヒハヤヒノカ ミ)[詳細不明]、甕速日神(ミカハヤヒノカミ)[詳細不明]、饒速日尊(ニギハヤ ヒノミコト)がいるが、天忍穂耳尊の場合「ハヤヒ」は諡号の方に付けられている。

註:火速日神の表記は正確ではない。「火」=「ヒ」は実際には「漢」という字の部首 を「ひへん」にしたものとなっている。PCで表現できなかったので「火」で代用し た。


『古事記』神話上では、天照大御神に最初に地上に下るよう命じられた神だが---天忍穂 耳尊は二度までも降臨するよう命じられたのだが、結局応じなかった---最終的に天から 降臨したのは、瓊々杵尊(神話上では天忍穂耳尊の息子。現実の神社祭祀上では弟)だっ た。

奇妙な連想で恐縮だが、皆さんは『マトリックス』というアメリカ映画をご存じのこと と思う。この映画の柔術道場シーンに出てくる掛け軸に注目していただきたい。その掛 け軸には、なんと「勝速日」と書いてあるのだ。これはなんでも今では合気道系の用語 として実際に用いられているらしいが、アメリカ映画の中で、このような引用が正確に なされていたことに後で驚いたほどだ。(当時私は饒速日尊のことを考えており、最初は 饒速日尊関連で興味を持ったのである。)

この合気道の「勝速日」と天忍穂耳尊の諡号には関連があるはずだが、今の私にははっ きりしない。ただ、天忍穂耳尊は、正体不明の人物ではあるが、諡号から察するに凄腕 の武人、あるいは格闘家であったのではないかと思われる。

(注)当サイトの「植芝盛平先生御口述」ページの「第三章 技」に出てくる「時間を超 越した早さを、正勝吾勝勝速日(まさかつあかつかつはやび)という。」という記述を 参照ください。

尊敬する古代史研究家原田常治氏はその著書の中でこう述べている。

この方は宮崎というよりも、都農以北にしか神社も見当たらないところを見ると、女王 の国の北部の押えとして、今の耳川以北、東郷町、日向市、延岡市のほうをおさめてい たと推察される。西郷、東郷と流れて、美々津海岸に注ぐ川を「耳川」というのも、こ の「耳尊」の名からとったのではないかと思われる。(中略)それで、北からの侵入に 備えて、長男のこの天忍穂耳尊を、今の日向市、延岡市の地方においたのではないかと 思われる。また、神武天皇が、大和へ養子にこられる時、なぜ、大日霊女の居城、西都 に近い一ツ瀬川の川口か、高鍋の浜から出港しないで、わざわざこんなに北へ歩いてき て、この耳川の川口から出港されたか。やはり、この付近に伯父の忍穂耳尊がおられた ので、そこに挨拶されるためだったと考えられる。神武天皇が大和へ養子に決まった 時、鹿児島県隼人町におられた伯父の日子火々出見尊の所へ挨拶に行かれたらしいこと は、そこにある鹿児島神宮(祭神、日子火々出見尊)の記録にある。(中略)この方の 事績や墓陵は、はっきりしていない。鹿児島県川内市の瓊々杵尊の墓陵や、鹿児島空港 に近い溝辺町の日子火々出見尊の墓陵、それから大隅の吾平町の鵜茅草葺不合尊の墓陵 には、現在、宮内庁の詰所があり、官服の役人が詰めて、代々皇族方が御参拝されてい る。また、次男の穂日尊の住んだ跡も、その墓陵も出雲にはっきりと存在している。そ れだのに、この長男天忍穂耳尊だけが、墓陵がはっきりしていない。延岡市の南方古墳 群が昔から有名だから、あの辺にあるかもしれないと、自動車で二時間ばかり南方の部 落を探してみたが、はっきりしなかった。一カ所だけ部落の人家のある中に、小山があ って、山上に神社があり、その裏に「古墳につき立ち入らないで下さい」と、柵のよう なものがしてあった。あの小山全体が古墳とすれば、よほど偉い人の墓陵であると思っ たが、確かめる方法はなかった。皇室関係でも、この天忍穂耳の墓陵だけが判っていな いようである。(『古代日本正史』P305-P307)

天忍穂耳尊は「忘れられた長男」なのである。「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊」というり っぱな諡号をもらいながら、実のところ、現在まで「捨ておかれてきた神」なのであ る。(原田氏が天忍穂耳尊の墓陵ではないかと推測し訪れた場所は、このHPの遺跡ペ ージで見ることができる。[遺跡]ページの「瓊々杵尊1」天下神社参照)

私は、将来、天忍穂耳尊の墓陵がはっきりし、正しい名前で祀られるようになることを 願っている。