鯨ける利目




宮崎県北地域(日向市・延岡市)に地名としていくつかの名前を残している----とはい え今となってはほとんどの地元民がこの地名の由来を知らないが----神武天皇の部下大 久米命の話である。


原田常治氏の『古代日本正史』にこう書いてある。

この時(神武東遷の時)、伊波礼彦に従って、いっしょに誰がついてきたか。調べたら 左の五人が幹部だったようである。

介添え 兄 五瀬尊
祭祀係   太玉尊
祭祀品係  玉祖尊
護衛     忍日尊(大伴氏の祖)
護衛     久米尊(佐伯氏の祖)

以上を「五伴緒神(いつとものおのかみ)」という。

日本書紀や古事記の「神武東征」、すなわち大和を征伐するのであれば、こんな陣容で 戦争できるはずはない。(中略)要するに養子にくるのに軍隊は不用だからで、僅か に、護衛として、柏原時代からの腹心の忍日尊、久米尊が手兵を率いて従ったにすぎな い。それを、御東征などと大げさに書き替えたから、何も彼も辻褄が合わないのであ る。船は二隻か三隻かはっきりしないが、総勢二十名前後であったと考えられる。 (P411-P412)

護衛役の久米尊(天櫛津大久米命)は日向と延岡に地名として名前を残している。

日向…櫛の山・米の山([遺跡]ページ神武天皇2参照)
延岡…櫛津町([遺跡]ページ神武天皇3参照)

古事記神話上では、大久米命は、護衛役とは別に伊波礼彦尊(神武天皇)の恋のメッセ ンジャー役もしている。のちに伊波礼彦尊の妻となる大和の伊須気余理比売(いすけより ひめ)は伊波礼彦尊の伝言を伝えにきた大久米命が、目のまわりに鳥の目のような入墨を しているのを見て驚き−魏志倭人伝に「皆黥面文身す」と出てくるあれである−、歌で こう質問する。

あめ つつ ちどり ましとと など 鯨(さ)ける利目(とめ)

[雀、鶺鴒(せきれい)、千鳥、大勢いるかもめのように、あなたはなぜ、裂けた目を しているのですか]

その質問に対し、大久米命はこう歌って返す。

をとめに 直(ただ)に逢はむと わが鯨ける利目

[娘さんに、じかにお逢いしたいと思って、裂けた大きな目をしているのです]


入墨の習慣は隼人族等南西諸島系種族の特徴である。伊波礼彦尊自身は〈 鯨ける利目〉 はしていなかったであろう。種族が違っていたからだ。伊波礼彦尊はいわば古代の薩軍 幹部を率いて大和に上ったようなものである。明治に至るまで南西諸島の住人たちは入 墨の習慣を維持していた(ビデオ『田原坂』参照のこと)。あの西郷さんは大島に島流 しになっていたことがあったが、その島で得た妻は両手に入墨をしていた。大久米命の 出自を考えるときの大きなヒントになると思う。

私も、大久米命の〈 鯨ける利目〉姿を見て驚いてみたい。彼は私にとってかなり興味深 い人物なのである。