瓊々杵尊2




2001年11月20日

001 北川町俵野可愛山陵(撮影01.11.18)





北川町俵野(ひょうの)可愛岳(えのたけ)ふもとに伝わるもうひとつの瓊々杵尊陵墓 地である。

写真に見える石段を登っていくと門がある。

写真左手はすぐに民家だが、なんと西南戦争のとき、最後の陣屋になった場所なのであ る。

現在は資料館となっている。明治10年8月15日、西南の役最後の和田越の決戦に敗 れた西郷さんは、北川の俵野に退き、児玉熊太郎宅に宿陣した。17日西郷さんは、薩 軍の解散命令を出した。

この日と、先の大戦の敗北日が奇妙に自分の心の中で重なってしまう。

西郷さんは、この写真の手前の小道を伝って可愛岳に入り、長い鹿児島への敗走の旅に 出た。(このとき発表された解散命令書の内容はいずれ、このHPでご紹介したい。)

この可愛岳の頂上もまた日向市の米の山同様奇妙なメンヒルやストーンサークルがある のだが、私はまだ見ていない。山頂までの道が整備されていないので、獣道を登ってい かなければならず、まだ決心がつかないのである。











2001年11月20日

002 可愛山陵入り口(撮影01.11.18)





門の向こうに木の生い茂った円墳がある。

写真の右端に宮内庁管理を表示する立て札が立ててあった。

その立て札には

「みだりに陵墓内に立ち入らぬこと」

「魚鳥等をとらぬこと」(どうしてこんなところに魚が泳いでいるのだろうかと、不思 議に思った)

「木竹を切らぬこと」

という趣旨の三つの注意が書かれていた。











2001年11月20日

003 可愛山陵裏手(撮影01.11.18)





002の写真のちょうど裏手に当たる場所から、円墳を撮った。


ご覧の通り、樹木が生い茂り、ほとんど円墳の形を認識することができない。


手前は円墳を円上に取り巻く垣根で、こちらは手入れをされているようである。


撮影者の立った位置のすぐ後ろは民家、写真右方向に下りていっても民家である。










2001年11月20日

004 野口雨情歌(撮影01.11.18)





西郷さん陣屋跡の前を通って可愛山陵に至る小道にこのような看板が立ててあった。


こころもて吹け朝風夜風

ここは日向の可愛山陵

と書いてある。


「吹け朝風夜風か……」そうつぶやきながら、帰るために坂道を下り、駐車場に向かっ ている途中、西郷陣屋跡のそばに建っている地蔵堂で老婆がひなたぼっこをしていた。

目が合ったので、あいさつをすると何か語りかけてきた。聞きとれなかったので、「え っ?」と応えると「風がふきますね」と言った。

「えっ?ああ、でも今日はあったかいですから」そういって車に乗り込んだが、車で延 岡方面へ向かいながらその場面を思い出し、不思議な気分におそわれた。










2001年11月20日

005 西南戦争薩軍最後の本営跡(撮影01.11.18)





旧児玉熊太郎氏宅。


まったく普通の民家である。


現在は北川町が入場料を取って管理している。


今はガラス戸がはめてあり、その中に西郷さんほか数名の実物大の人形が置いてある。


この日は日曜日だったが、誰も訪れているような形跡はなかった。