「支那」は差別語にあらず
戦前の日本において、今われわれが「中国人」と呼んでいる人たちを「支那人」と呼ん
だのは、ドイツ人を「ドイツ人」と呼ぶのと同じことであった。その語自体には何ら価
値判断はふくまれていない。そしてさらに留意すべきは、それよりほかに呼びようがな
かった、ということである。「中国人」というのは、戦後の呼び方である。
無論、中国人に対して軽侮の念をいだき、見くだす態度をとる日本人はいた。多数い
た、と言ってまちがいではなかろう。しかし敬意を持ち、親愛の気持ちをいだく日本人
もたくさんあった。特に敬意も蔑意も持たぬ、要するにさして関心のない人は最も多か
ったであろう。どの日本人もみな「支那」と言い、「支那人」と言っていたのである。
口で言っていただけではない。学者も著述家もみな、文章にそう書き、著述にそう題し
た。たとえば、吉川幸次郎博士は、「支那」を愛し、「支那の文学を理解するには支那
人になりきらなければならない」を信条として、「支那服」を着し、「支那語」をしゃ
べり、人から「支那人」とまちがわれることを何より喜んだ人である。(中略)
こうした例は、あげてゆけばきりがない。日本人だけではない、明治の後半に長く日本
に留学し、その後も日本人とかかわりの深かった魯迅は、日本語で話す時は自分の国を
「支那」と言い、自分を「支那人」と言ったし、日本語で文章を書く際も同様であっ
た。これは、英語のできる中国人が自分の国をChinaと言い、みずからをChineseと言う
のと同じことなのである。
これを要するに、戦前の日本において「支那」と言い、「支那人」と言うのは、たとえ
て言えば、木村という男を「木村」と言うのとなんらかわりはないのである。木村を軽
んずる者たちの「木村」と呼ぶ語は軽蔑やあざけりの調子をおびたであろうが、それは
その者たちの木村に対する評価なり感情なりの問題であって、「木村」という名前自体
の問題ではないのである。(中略)
「支那」ということば、ないし文字は、日本が中国に対する蔑称として作ったものだ、
と言う人があって、またそれを真に受ける人もあるらしい。いったいどうしてこれが蔑
称になるのかというと、日本の「本」は本部・本店の意味で、対して支那の「支」は支
部・支店の意味だ、というのが一説。もう一つは、「支」は支配の支、「那」は「あ
れ」で、「あれを支配せよ」の意味の命名だ、というのだそうである。よくよくそんな
奇想天外なことを考えつくものと思う。
「支那」ということばは、ずっと昔、千五百年以上も前のインドで、現在の中国のあた
りを「シナスタン」あるいは「シナ」と呼んでいたのが起源である。「スタン」は、土
地、地域の意である。今日でもアジア中部には、パキスタン、アフガニスタン、トルキ
スタン、カザフスタンなど「スタン」のつくところが多くあるが、これらの「スタン」
もみな地域の意である。
それではそのスタンの上の「シナ」は何にもとづくのか。おそらく中国最初の統一帝国
である秦帝国の「秦」に由来するものであろうと多くの学者は考えている。(中略)
もともと中国には、みずからの民族・土地・国を全体として呼ぶ語がない。(中略)ま
た、この国の国がらとして、革命があると、それまでの国そのものが消滅して、同じ土
地の上に別の国が建国する。当然新しい国号を称する。したがって、すでにほろびた国
と、現に繁栄している(そして今後は永遠につづくはずの)自分の国とをひっくるめた
名称など、生ずるよしもなかったのである。
しかしそれは中国のがわのお家の事情であって、外の者にとっては、全部ひっくるめて
の呼び名がどうしても要る。それが「シナ」であり、あるいは「シーヌ」や「チャイ
ナ」なのである。(中略)
さてそこで、四世紀以後、インドまで行って仏典を持ち帰り、翻訳しようとした熱心な
中国仏教者たちは「シナ」「シナスタン」を前にして困ったであろう。それは自分たち
自身を呼ぶ語なのだが、それに相当する語がこちらにない。そのころは「シナ」は
「秦」に淵源することはもうわからなくなっていたであろうし、かりにわかっていたと
しても、国内では「秦」はとっくの昔にほろびた国の名であって、現在の自分たちをふ
くめた語としては用い得ない。
やむなく音訳の方法をとることとして、シナは支那、至那、脂那などとし、シナスタン
は震旦、真丹、振丹、神丹などとした。いずれも美字を用いた、とのことだから、これ
らはみな、当時の人にはよいイメージを喚起する字だったのだろう。
そうやってことばができると、それは特にインドという高い宗教文化を持つ他国を見出
した仏教者にとっては、自分たちの国を通時的に称する名として便利であった。(中
略)
わが国に「支那」の語が入ってきたのは平安時代である。ただし一般にはあまり用いら
れていない。(中略)十八世紀はじめ、新井白石が、日本に潜入してとらえられたイタ
リア人宣教師シドッチを尋問して『西洋紀聞』を書いた。そのなかに「按ずるに其人の
言にチイナというは即支那也」とある。白石はシドッチの言う「チーナ」が仏典にいう
「支那」にあたることに気づいたわけである。これが、洋語チナ、シヌ、チャイナなど
と「支那」の語とが日本で結びついたはじまりである。
以後また百年ほど用例が見つからない。要するに江戸時代のはじめの二百年ほどのあい
だは、「支那」という語はほとんど用いられることがなかったわけである。(中略)一
般には、「から」「もろこし」などと言い、文字で書く際には、「漢土」「唐土」など
と書いた。中華崇拝の儒者や唐話学者は「中華」「中国」ということもあった。
十九世紀になって洋学がさかんになるにつれ、おいおい「支那」がひろまった。江戸時
代の「支那」はたいへんハイカラな語であった、と言われるのは、洋学者たちが、洋語
の翻訳として、あるいはむしろ洋語そのものとして、「支那」と言ったからである。
以上要するに、「シナ」の語はインドに発し、これを五世紀ごろの中国仏教者が「支
那」と表記し、それが仏典や留学僧を通じて日本に伝わったが、その経緯よりして仏教
臭をおびた語であり、また用いられることはまれであった。江戸時代の末期にいたっ
て、Chinaなどの洋語の訳語として(したがって仏教臭はまったくおびることなく)ひろ
く用いられるにいたった。その語(あるいは文字)自体はもともと中国にあり、一部の
日本人も知らないではなかったが、日本人がひろくそれを用いるにいたるのはむしろ西
洋経由である、という点では、「北京」「揚子江」「満州」などと共通するものがあ
る。(『諸君』2001.11月号より抜粋)
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